続いてきた理由 五
2015-09-04


晴れ間もつかの間、不安定な空模様の9月ですね。
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さて渡来人の数についてですが、公式の記録に残っているのは、当時の王族と親交があり政治力かつ統率力のある指導者の下にまとまった大きな集団の話だけで、具体的な人数の記載などはないようです。なので正確な数は不明ですが、この時代の急激な人口増加から推測すると、一説には100万~150万人もの人数が入ってきていたとも言われています。

折しもシリア難民の問題がニュースで盛んに取り上げられていますが、今よりずっと人口が少なく土地も余っていたであろう時代の日本でも、言葉もろくに通じない、見ず知らずの外国人集団を受け入れるのはやはり大変なことだったでしょう。少数なら同情もし手厚くもてなしたかもしれませんが、現在の移民問題と同様に、伝手をたどり次から次へとその数を増やすうち、記録に残らない程度の小競り合いや揉め事の類はいくつも起きたことでしょう。だからといって帰る場所はもうない。それにせっかく戦乱を逃れてきたのに、ここでまた争い殺しあうのはあまりに愚かだし、双方にとって不幸だ。ではどうする?

お互いに「利」のあるつきあいをしていくしかない。

誰にとっても役に立つ技術をもってさえいれば、出自にかかわらず、どこにいっても生きていける。さらに技術を独り占めするのではなく分け与えるという姿勢であれば、むしろ歓迎され、良い関係を築いていけるし、技術を生業として長く継承していくこともできる。渡来人たちが単なる戦争難民ではなく、職能集団としての性格を濃くしていったのは、必然の流れだったのでしょう。国籍も、地位も身分も性別も関係なく、力で抑えこむのでもない、役に立つ技術によりあらゆる土地・あらゆる階級の人々と交流し、思うままに融合したり離れたり、という生き方は、ある意味究極の自由人ともいえるかもしれない。最初の頃一族で固まって暮らしていた渡来人たちが次第に各地へと広がり散らばって、国と人とに溶け込み、ともに現在の日本国と日本人を形作って来られたのも、ひとえにこの、枠にはまらない「職人気質」な生き方を選択したおかげなのでしょう。

その「職能」のひとつであった製紙業。越前和紙の発祥は伝説によると、
「川上からやってきた、綺麗な着物を着た女性」
から製紙法を習ったのが始まりだとされています。
女性の正体は不明で、継体天皇のおつきの女性であるとか、諸説ありますが、明らかに土地の人間ではない、どうみても富裕層といった外見の女性が突然現れて手ずから技を教え、またいなくなったという話は、まさに当時の職能で生きる人間の動きそのもの。性別関係なく、自由にあちこち移動しつつ、ここと決めた土地に技術を根付かせ継承させていくという生き方にぴったり合致しています。
川上御前を紙祖神にいただく越前和紙の里では、紙を漉く主力は女性です。紙漉きに必要な綺麗な水が豊富にある、という好条件がある土地に根ざした産業ではありますが、昔から決して閉鎖的ではなく、常に新しいものへの好奇心を失わず、来るものは拒まず、必要とあらばどんどん外に出ていく、という開かれた場所でもあります。

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